読書会、ブログ更新担当はゆーすけです。
(なお途中で振るノンブルは文庫『The Indifference Engine』準拠です)
今回は未読者が1名(会員)で、新入生は全員既読、さらに内2名については『虐殺器官』、『ハーモニー』も読まれているということで安心して読書会を行うことができました。
また本作が007シリーズ(加えてMI5、MI6についてや、原作者イアン・フレミング、その他スパイ兼作家であったモームやグレアム・グリーンにも触れる)、アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』をモチーフにしているのでそれらについても既知であるかどうかの質問も事前に行いました。
さて、まずは登場人物の紹介でそれらの元ネタに触れました。
「語り手」=「007 ジェームズ・ボンド」、「『アクロイド殺し』の語り手の名もジェームズ」
「上司」=「007 M」
「グレヴィル・アクロイド」=「『アクロイド殺し』の犠牲者ロジャー・アクロイド」
「キャロライン・シェパード」=「『アクロイド殺し』の登場人物キャロライン・シェパード」
「旧友」=「007 Q 作中の死因である自動車事故は演じていた俳優デスモンド・リュウエンの方」
その後、本読書会では、大ネタである「意識の消失」、「哲学的ゾンビの内面」のSF的な掘り下げはあまりせず、それらが作品の中ではあくまでモチーフの一つに過ぎないという立場から読解することを宣言しました。
モチーフの一つ目が、「007シリーズ」であることに異論は無いでしょう。
演じる俳優が変わりながらもジェームズ・ボンドという一つのキャラクターであり続ける点を、複数の身体に意識が転写され続けるスパイを語り手に添えることで、哲学的ゾンビの内面に迫るSFに変奏してしまう手腕は、それ自体見事ではありますが、本作の魅力はそれだけに留まりません。
また、モチーフの二つ目は、「メタルギア」でしょう。
#7と呼ばれる計画そのもの、あるいは、語り手の後継者が「子供たち」と呼ばれていることは、「メタルギア」シリーズの、伝説的な傭兵BIG BOSSのクローンを作り出そうとした「恐るべき子供たち」計画を髣髴とさせます。
モチーフの三つ目は、アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』です。
作中で言及されている上に、ミステリ仕立てであること、最初の犠牲者がアクロイドであること、さらに……もう一つ(二つ?)の理由は『アクロイド殺し』を読んでいる方ならお分かりですよね?
分からない方は今すぐ『アクロイド殺し』を読みましょう。
モチーフの四つ目は、ブラウドン判例集からの引用、英国女王の「政治的身体」と「自然的身体」です。
本作で引き裂かれるのはいわば「組織人としての自分」と「個人としての自分/アイデンティティ」。それは、女王/個人、スパイ/個人、そして勿論本作で最も劇的に引き裂かれるのは無意識/意識に違いないでしょう。ここで「組織人としての自分」とは「社会の中の機能としての自分」と読み替えても良いかもしれません。
そして最後に言及したのは、「虚無」、「テクスト」、「古いもの」、「新しいもの」を象徴するモチーフたちの多層な重なり合いです。
自分を「時代遅れなもの」と言い、「恐竜」、「写本」、「君主」をそこに連ねます。このリストの最後に「意識」が並ぶことは、本作を読まれた方には今更言うまでもありません。
近代の帝国であった英国は「古いもの」の象徴であり、著者お得意の映画ネタまでイギリス一色に染め上げられた本作において、最も顕著にイギリス的存在たる語り手/ジェームズ・ボンドは当然、近代を否定するポストモダン/脱構築建築に辛辣な態度を取ります(面白いのは、206ページにて展開される、ポストモダン/脱構築建築の在り方についての彼の表現は、彼自身の在り方についての表現と酷似している点です。無意識のうちに同族嫌悪していたのでしょうか)。
しかし、キャロラインによって自分にはもう「意識」が転写されなかったことを知らされた語り手は、家に帰って「意識/彼」からの手紙を読み、それを挟んでいた本を手に、作中最も見事(と担当者が考える)な独白を展開するのです。
完全ではなかった「意識/彼」の残した本に書かれた「世界は充分ではなかった/ワールド・ワズ・ノット・イナフ」という文字はつまり、意識の消失した「私」の完全性を示し、さらには造本の白さと、ブレイクの「ミルトン」の一節から、劇的な読み替えが始まります。
経験主義の比喩であり、何も書かれていない磨かれた板を指し示す純白なる無/タブラ・ラサは、「古いもの」の象徴であった大英帝国のもう一つの側面、ドーヴァー海峡の白きチョーク層から連想されたブリテン島の古名/アルビオン/白き国……新しきものであるはずの「無意識」=「虚無」を象徴する部分が露呈させます。
ここにおいて、本作は、積層してきたイギリス的な古さを……役目を終えた「意識」を脱ぎ去り、「意識よ、おお、人間の古き鎧よ」という声と共に「新しき人」の目覚めを祝福するのです。
そこには、古きものが滅びるということの美しさがあり、あるいは執筆中に恐らくは自らの死を覚悟していた伊藤計劃が「意識」に代弁させた、痛切な声を聞くことが出来ます。
意識という魂の抜け出した後の、語り手/虚無は、その存在様式とマッチした虚ろな声で淡々と幕を閉じかけ、最後に、まるで死後テクストとして存在する伊藤計劃が、人間としての伊藤計劃にあてて祈りを捧げたかのように、こう言うのです。
「私の意識に安らぎあれ」、と。
なお、SFとして見た場合に以下のような意見も見られました。
・意識と無意識というものを二項対立にするのは、やはりイーガン以降のSFとしては退行しているのではないか。
・リベットの実験は、「自由」意思を否定するものであっても、「内面」の存在を否定するわけではないのだから、哲学的ゾンビとは繋がらない。そこに混同がある。
・むしろ、人間と見分けがつかないような完璧な哲学的ゾンビがいたとして、それは自分たち人間が「内面」を持っているのと、同程度の意味での「内面」を持っているのではないだろうか。
・そもそも哲学的ゾンビ自身も自身が哲学的ゾンビかどうかを判断できないのだから、手紙を出したのは本当に「意識」だっただろうか。それは単に躯体間の連続性が保たれていないだけなのではないか。
・語り手は、自身が哲学的ゾンビであると主張するが、それを証明できない以上(意識が転写されなかったことに気づいた研究所は一体どういうバカげたオーバーテクノロジーを持つ奴らなんだ)、信用できない語り手である。
・自由意思が無いことでグチグチ悩む主人公にはイライラする。
作家論としては以下のような意見があがりました。
・伊藤計劃は、「人間=テクスト」、「ゾンビ」のモチーフを繰り返し使っている。
・人間同士のコミュニケーションに乏しい点が不満なので、彼のミームを受け継いだ若き新人作家(チラッチラッ に伊藤計劃のアプローチで「他人」を見るとどうなるのか書いて欲しい。
さらには、「クリスティの『アクロイド殺し』にもある×印が本作にもあり、これは意識的にやっているのだろうから、実は×の断絶の部分で、始めに戻るだけでなく、何か書かれなかったものがあるのでは?」という意見も。
なお、多かったので食事は分かれて行きました。
僕が帰ったあと、どうしてISやニャル子さんが流行るのかを新入生と交え一時間ほど話した結果「キャラクターの傾向として、内面性が欠如している」という傾向が導き出され、最終的にライトノベルは伊藤計劃の目指した方向(意識の消失)に進んでいるという結論へとまさかの着地を見せたという、ボンクラ議論が展開されたようです。
次回の読書会は、4月27日『われはロボット』読書会です。
20、24日の通常例会も来てくださると会員は喜びます。