2013年03月05日

ガルシア=マルケス『百年の孤独』読書会レポ(13年5月8日公開)

今年3月、ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の読書会を行ないました。担当はMAKKIです。一年前から『百年の孤独』の読書会はやりたいなと思っていましたが、自分が今年卒業する運びとなったため、学生生活のうちになんとしてもということでひらかせていただきました。
恥ずかしながら、更新は卒業後の5月となってしまいました。現役生のみなさんには卒業後もブログをお貸しいただき感謝の念に堪えません。

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2012年05月24日

5月22日「道化師の蝶」読書会

2012年度第5回読書会は新入生2名、会員5名の計7名の参加になりました。
本年度最後の新歓読書会の課題本は、第146回芥川賞受賞作でもある、円城塔「道化師の蝶」でした。
読書会・ブログ更新の担当はゆーすけです。

作品の性質がそのまま反映されたかのように発散していった読書会のライブ感をお伝えするため、発言と申し訳程度の状況説明だけを抜き出して並べてみることにします。


「読んで、なんじゃこれって思った人は挙手せよ」
 全員挙手。
「レジュメの写真にあるのが道化師の蝶です」
「VかYみたいな字がナボコフのサインかと」
「VladimirのVか」
 少し円城さんの経歴説明。
「円城さんの特徴について、網羅的でない解説」
「(1)構造から小説を作る」
「『ドン・キホーテ』なんかが既にやっていたメタフィクションをさらに設計図そのままに抜き出したボルヘスの系譜にあるのだと思う」
「(2)登場人物がしばしば人間でない」
「巨大知性体と呼ばれるコンピューターだとか」
「架空の数学的構造体だとか」
「双子素数だとか」
「最近、人間に近づきつつある。道化師の蝶のはわりと人間」
「(3)あらゆるものが現象として著述される」
「作用とかを常に考えちゃう人ですな」

 サイン会で配布された栞に描かれたプロット図を再構成。
「蝶はどこから来るのか」
「とりあえずX章」
「無活用ラテン語の国から」
「エージェントのレポートを読んだ友幸友幸が変身?」
「読むことが作用として記述されている」
「ある種の交わり。交尾?」
「そもそもレポートの内容は何なのか。日本語だと言われていたのになぜ無活用ラテン語の世界へ?」
「3つある楕円形は一体何なのか」
「違う位相にある世界?」
「どういう基準で区分されているかよく分からない」
「『繰り返し語られ直すエピソードが、互いに食い違いを見せるたび、文法の方が変化していく言語というものはないものだろうか』(単行本69頁)」
「飛行機の中での会話が3回あって、それぞれ矛盾している。既視感の反復。食い違いが出る度に世界が変わっているのでは」
「しかし、Vの創作がなぜTに繋がるのか」
「円城さんにしては動的な作品」
「4次元を使わないと構造が描けなさそう。うねうねと動いているイメージ」
「あくまで『例』なんですよね」
「円城さん、割と信用できない」

「ミスタスは死の都でないとか言いつつこれ架空の都市だよね」
「ネトゲの。だからジュカ語も架空言語」

「ある種のシステムの創造をやろうとしていたのではないだろうか」
「しかも最後には失敗する」
「色んな言語が優劣なく同じレベルで存在する多言語空間の構築。ナボコフがモチーフになっている理由かもしれない」
「一方で、ナボコフは旅する作家というより亡命作家」
「だからナボコフには望郷の念があるが、道化師の蝶の登場人物には明らかにそれが無い」
「家(ホーム)の無い人々の話なんだよね」
「言語にはそれに付随する国や文化圏といったものがあるが、これは純粋な存在としての言語を捉えようとしているのでは」
「言語のみに依拠し、発想の起源を探る」
「耳で聞いて言語学習をし、それを大量に残す。一方で覚えた側からすぐに忘れていく部品その一、友幸友幸」
「もうひとつの起動軸が流通」
「実利的な側面を考え、それがどういう風に流通していくかを考える」
「それが部品そのニ、A・A・エイブラムス、その三、エージェント」
「しかしやっぱりそこに出てくる発想は偽物で、元ネタのナボコフが立ち塞がる」

「『さてこそ、なる連語の扉をくぐって』等と言ってるが、ナボコフのあの使い方は流石にどうなのか」
「タイムマシンの方法をみんなうんうん唸って考えるところを、メタで解決するのは一番ダメなのでは」
「元ネタでかつメタ発言を遠慮なくするナボコフを持ち出すのはアリなのか」
「殆ど嫌味の域にまで達している超絶技巧ことナボコフ」
「ナボコフなら仕方がない」
「ナボコフならやりかねない」

「円城塔のユーモアある文章と夏目漱石の猫の文章は通ずるものがある」
 ここからしばし夏目漱石トークに。
「夏目漱石は猫が一番面白い」
「一番ぶっとんでて、現代まで通ってる」
「そう考えると円城さんは意外と古典的」
「夏目漱石は、近代文学の古さ・ローカル性を知りつつも日本には基礎も無いので仕方なく近代文学的なものを書いていたのでは」
「そうか?」

「『道化師をごらん!』では時間と空間について語り手が勘違いしていたと最後に指摘される」
「空間と時間について書いてある部分が道化師の蝶にも多い」

 感想タイム。
「正解を求めるとつまらなくなる気がする」
「どう楽しめばいいかさっぱり分からなかった」
「無活用ラテン語ってホントにあったんだ、円城塔のホラ吹きだと思っていた」
「真面目に語っているように装いながらふざけている」
「円城塔なのに、とりあえず何が起こっているかは分かる」
「文章の意味がわかるってすばらしい」
「いや、普段も何が起こっているかぐらいかは分かるよ」
「発想の起源を書くための、物語ではなく実験。個人的には円城さんの作品の中でもかなり面白い方だと思う」
「円城塔の中ではそこまで面白くないが、文芸誌に載ってた作品の中ではかなり面白い」
「文芸誌に載せてたのでは「良い夜を持っている」と「松ノ枝の記」がベストでは」
「いや、「松ノ枝の記」は説明的で云々」
「円城さんはシリアスな文章の方が良い」
「そうか?」
「発想の起源を巡っていった結果最後に立ち塞がるナボコフ」
「オブベに比べるとホラ吹きが優しくなった」
「短いのは彼の美徳」
「さてこそ」

これで今年度の新歓読書会はすべて終了ですが、新会員は引き続き募集しています。
毎週火・金に例会を行っているので興味のある方はぜひご参加ください。
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2012年05月20日

5月18日「四十日と四十夜のメルヘン」読書会

 2012年度第4回読書会は新入生4名、会員6名の計10名の参加になりました。
 扱った作品は青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」(新潮文庫『四十日と四十夜のメルヘン』所収)。折しも読書会前日に発表された第二十五回三島由紀夫賞には氏の近著『私のいない高校』が選ばれました。今後のご活躍を心よりお祈りいたします。

 読書会ではまず本作に対して、バラバラにされた記述をパズルのように組み合わせ、全体として整合性のある解釈を生み出せないかという「謎解き」的なアプローチを試みるところから始めました。一般的な小説像とはだいぶ異なった本作の錯綜した記述のあり方について整理するためのものでしたが、議論としては登場人物に論点が集中し、語り手の「わたし」は作中で入れ替わっているのか、男性なのか女性なのか、上井草とは何者なのかといった点が話題に中心になりました。さらには日常(日記)パートとメルヘンパートの間に対応関係を認めれば、本作は一種のメタフィクションとして統一的な解釈が可能だとする意見も参加者の一人によって提示されましたが、これに対してはうまく反応できずに終わりました。読書会担当者として後悔の残るところです。

 本作の記述がどれほど錯綜したものであるかということをひと通り確認したところで読書会は本題に入ります。作品のもつ魅力のありかを明らかにするため、後藤明生『挾み撃ち』との比較を試み、さらに補助線として蓮實重彦による『挾み撃ち』論「『挟み撃ち』または模倣の創意──後藤明生論」を参照しました。この論に従えば、『挾み撃ち』の小説としての魅力は「物語を〈模倣〉することでかえって物語を遠ざけながら、語りの〈模倣〉と作中のモチーフとして現れる〈模倣〉との共振関係によって快楽を生み出す」ところにあると言えるでしょう。
「四十日と四十夜のメルヘン」もまた〈散乱〉させられた記述によって解体された物語を、作中に繰り返し現れるチラシの〈散乱〉との共振が支えている小説だと言えます。ふたつの〈散乱〉の共振は、文章の向こうにあって解き明かされるのを待っている「謎」や「仕掛け」ではありません。読む快楽を生み出すメカニズムとして直接読者に作用する、文章そのもののはたらきであって、それは蓮實重彦が『挾み撃ち』の内に指摘している「表層の戯れ」というはたらきに対応すると言っていいかもしれません。
 書割のようで向こう側を感じられない世界を、以上のような方法でもってかえって魅力的に描き出しているところに、「四十日と四十夜のメルヘン」の小説としてのおもしろさがあると言えるのではないでしょうか。

 当初の予定ではこの後、中原昌也との比較を通じて青木淳悟と後藤明生との間にある差異を明らかにできないかといったことを話す予定でしたが、残念ながら途中で時間切れとなりました。また終了間際には(『挟み撃ち』論において蓮實重彦が前提としていたような)「物語批判」という問題意識は読者にとって必ずしも自明のものではないという立場から批判があがり、それについて議論が盛り上がりました。話し足りないところも多々ありましたが、参加者の積極的な発言に助けられたこともあって、結果としてはそれなりに有意義な読書会になったのではないかと思います。

次の読書会は5月22日(火)、課題作品は円城塔「道化師の蝶」です。教室は4共32となります。ぜひご参加ください。
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2012年05月11日

5月8日「しあわせの理由」読書会

 2012年度3回目の新歓読書会は「しあわせの理由」でした。

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 SFに馴染みのない新入生にもぜひイーガン作品の魅力を知ってもらおうと思い、イーガンの多くの作品に見られる自己の性格や価値観を変えてしまえる“価値ソフト”や“神経インプラント”という概念を、ごく近い未来を舞台にすることで身近なものとして描いたこの作品を選出。
 結果的に4人の新入生と僕を含め5人の現役会員が集まりました。

 この短篇の一番の山場は後半の手術後からラストまでだということで、しあわせを失うまでの経緯としあわせを失ってからの暗黒の日々はさっと流そうか
 と思ったのですが、
 読書会を担当するにあたって読み直したところ、しあわせを失うまでの過程についてもよく練り上げられ、それこそが作品全体を通した身近さ・現実感の根源になっていると思い、ある程度くわしく追っていきました。参加した新入生にも「しあわせを失い無気力に過ごす日々がすごくリアルで共感しました」という方がおり、くわしく触れてよかったと思います(いいね。君! SF研向きだよ!)

 その後も話の流れに沿って僕の思いの丈をしゃべりつつ進めていきましたが、擬似神経導入の手術後、あらゆるものがしあわせに感じられるようになったところに入ったところで、「この状態ってどう思う? 僕は悪くないんじゃないかと思うんだけど」という質問を投げかけたところ「それは生きてると言えるのか」「いや僕はそれは素晴らしいと思う」など狙い通りの反応があり、そこから議論が盛り上がりました。

 ラストの場面について、ドブ川の横、小汚い部屋に住む主人公がそれでも「ぼくはここが気に入ってるんだ」という、その場面はディストピアなのではないか。
 いや、本人がしあわせを感じているのならそれはしあわせ以外の何ものでもないのではないか。

 自分で恣意的に選んだ価値観しか持たないなんて、そんなものは人間とは言えないんじゃないか。
 いや、どんな人間も誰かから与えられた文化に影響を受けているのだから、本当に自分で選んだものなんんて何もないのではないか。

 より唯物論的な見方をするならもっと個人の選択が無意味な書き方があるのではないか。
 
 記憶が残っており「今は不幸なはずだ」という客観的な認識があれば、本当にしあわせにはなれないはずではないか。

 などなど。
 まだまだ話足りないこともありましたが、時間が迫っているということで20時を目処に見切りをつけ読書会は終了となりました。初めて来てくれた方も含め、新入生の方からも積極的に発言や疑問の提示があり、盛り上がる読書会になって良かったです。
 そのうちまた他のイーガンの話もしたいなあ。

 以上、読書会担当長野による読書会報告でした。
ラベル:読書会
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2012年04月29日

4月27日『われはロボット』読書会

今回は新入生五名(含む二回生以上)、会員七名に来ていただき、担当の私を入れて計13人の読書会となりました。担当はひろむです。

読書会はまず、著者のアイザック・アシモフの紹介および姉妹短編集『ロボットの時代』や同作者の長編『鋼鉄都市』シリーズの紹介から入りました。アイザック・アシモフは一九四〇年代から活動を始めたSF作家であり、「ロボット工学の三原則」いわゆる「ロボット法」を最初に作り出したとしてSF史上に重要な人物です。そして課題本の『われはロボット』がその最初期の短編を収めた短編集であることを紹介しました。

アシモフの『われはロボット』を書くまでの来歴については、『ロボットの時代』に挿入されたアシモフ自身の解説を参考にしつつ、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』やカレル・チャペック『R.U.R』に遡る「ロボットの創造は人間の領分を越えた振る舞いであり、天罰が下されるべきものである」というロボット像に対するアンチテーゼとしてのアシモフのロボット像、という解説をしました。すなわち、アシモフにとってのロボットとは、「信頼」できる「製品」であり「人類の友」であるロボットなのです。

その後、各短編に対して紹介とレビューを行うという形式で読書会を進行しました。

「陽電子頭脳」はチューリング完全なのかという疑問や「USロボット&人造人間株式会社」の企業体質について、九番目の短編「災厄のとき」に描かれるマシンによる完全な計画経済についてや同短編に描かれた東西冷戦終結後の世界予想についてなど、語ることはいろいろとありましたが、あまり深く考察することはできなかったかな、という印象です。

最後に参加者全員が一人ずつ感想を言い合いましたが、「古典と思っていたが歴史的なものを無視して単純に面白く読めた」「五〇年以上昔の作家なのにアイデアが凄く、そんな古い作品だとは信じられない思いだ」などの感想が出されました。

次回の読書会はグレッグ・イーガンの「しあわせの理由」、五月八日 (火) 於・4共32です。どうぞふるってご参加ください。
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