2013年03月05日

ガルシア=マルケス『百年の孤独』読書会レポ(13年5月8日公開)

今年3月、ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の読書会を行ないました。担当はMAKKIです。一年前から『百年の孤独』の読書会はやりたいなと思っていましたが、自分が今年卒業する運びとなったため、学生生活のうちになんとしてもということでひらかせていただきました。
恥ずかしながら、更新は卒業後の5月となってしまいました。現役生のみなさんには卒業後もブログをお貸しいただき感謝の念に堪えません。

『百年の孤独』は、蜃気楼の町「マコンド」と共に隆興し、衰退し、滅びていったブエンディア一族の百年間の物語です。
長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。
「長い歳月」の経過から一気に大佐の子供時代に遡った一文の次に「先史時代」という言葉を含みつつマコンドの勃興当時の話へと戻って行く。時間の跳躍をダイナミックに行なう冒頭が象徴するように、本作はマコンドで起こる出来事を自系列の順序にとらわれずひたすら綴っていく形式を取っています。

テンポよく延々と続いていくエピソードの羅列、そこではインパクトの強い超現実的な出来事が数々挿入されていきます。つきまとう幽霊。死の世界どころか一族に受け継がれた思い出の中からすら戻ってくるジプシー。チョコレートの空中浮遊。洗濯物を干しながら雲の彼方へと昇天する女性。数年降り続く雨とその後に訪れる十年の干ばつ。……そういった、現実ではありえないような現実を描く手法はしばしば「マジック・リアリズム」と呼ばれますが、この言葉は『百年の孤独』の世界的大ヒットに伴って頻繁に使われるようになった反面、幻想文学との区別なく(あるいは単に「ラテンアメリカ文学」全般を指して)使われることも少なくありません。
読書会では、この「マジック・リアリズム」という言葉の定義を、寺尾隆吉『魔術的リアリズム 二〇世紀のラテンアメリカ小説』を参考文献に再確認します。同書内で「マジック・リアリズム」は
・非日常の視点から現実を捉え直す
・非日常的な視点が個人のレベルでは完結せず、集団レベルまで伝播して一つの『共同体』を構築し、作品世界を満たす

という二点で定式化されています。特に、ラテンアメリカ文学でも著名なホルヘ・ルイス・ボルヘスは「ラプラタ幻想文学」に分類されるとのことで、恥ずかしながらマジック・リアリズムと一緒くたにしていた担当者も勉強になりました。


「マジック・リアリズム」を確認した後に、肝心の作品の話に入りました。

「記憶」と「語り」
本作の「語り口」は重要なポイントです。マルケスは本作を執筆する際「幼少期に色々な話をしてくれた祖母の語り口を参考にした」と述べていることは有名ですが、時系列が行ったり来たりする語りはまるで「記憶を思い出す」かのようです。また、話が進むにつれて登場人物の性格や認識もころころと変化しますし、メルキアデスなどは一族に受け継がれた思い出によって蘇ります(生き返るのではありません)。本作では、「語り」は「記憶」と強く結びついています。
そこで思い出していただきたいのが、マコンドを忘却の不眠症が襲った際の叙述。
こうして彼らは、言葉によってつかの間つなぎとめられはしたが、書かれた文章の意味が忘れられてしまえば消えうえせて手のほどこしようのない、はかない現実のなかで生きつづけることになった
この部分は担当者が本作で一番大事な部分だと思っている箇所で、このときを境にマコンドは記憶の忘却によって過去が失われ、現実と幻想が入り交じっていくことになったのではないでしょうか。また、本作のラスト、羊皮紙が読み終わった瞬間に蜃気楼の町が消えてしまうシーンを思い返すと、「マコンドは読者が読んでいる間だけ生起し、読み終わった瞬間に消えてしまう」というメタフィクション的な読み方もできるでしょう。
あとがきによると、本作には「42個の矛盾と6つの重大な誤り」があるとされています。しかし、以上のように「記憶と語り」というポイントから見た時に、それらが意味をなさないことがわかってきます。本作では、過去が現在を、新しい「語り=記憶」が古い「語り=記憶」を上書きしていくのです。それは記憶が現在を生起し、忘却によって失われていく世界です。

一族の宿命(「愛」と「孤独」)/「反復」と「一回性」
また、ブエンディア一族の宿命も重要です。この一族は「時間が堂々巡りをしている」と述べられています。たとえば、ブエンディア一族は「男手は早死に/発狂/出奔し、女手は長生きして家に留まる」という描き方がされています。そして、最後の最後で述べられる初めて愛によって生を授かった者≠ニいう言葉の意味。作品内で何度も語られる「愛」と「孤独」。本作が一族の歴史を綴る小説であることを考えると、「孤独」とは「家族から心が離れていく過程」なのではないか、という読みが出てきます。
そして、時系列の入り交じる本作の語りの中で意外と見逃されがちなのは、「一度『死』が描かれた人間の、『生前の様子』が語られることはない」ということです。これほど時系列が何度も行ったり来たりする中で、死んだ人間は死んだ人間のままなのです。

こういった「愛と孤独」「記憶と忘却」「反復と一回性」「語り」といったポイントを押さえた時に、本作は
「記憶の想起=現実と時間の反復=生の反復=愛」に対して「記憶の忘却=現実の一回性=死の一回性=孤独」が常に打ち勝ってしまう
という構図が見えてくるのではないでしょうか。
愛は、誰を救えるのだろうか? 孤独という、あの深淵から……。という帯文句を考えると、この読みは「愛は孤独を救えない」というやや悲しいものとなってしまいますが……。

今回の読書会は7名ほど集まってくださいました。500ページ近い課題本をこんなにも多くの会員が読んで参加してくれて、担当者としてはやはりうれしい気持ちでいっぱいでした。学生生活最後の読書会としてもいいものにできたのではないかと自負しております。

さて、卒業生がでしゃばったおわび、というのもなんですが、次回(5月8日更新時)の読書会告知もさせていただきます。

5月21日(火):庄司創『勇者ウォグ・ランバ』(アフタヌーンKC、全二巻)です。場所は4共33、18:30-20:00の間行われます。みなさまぜひご参加ください。

(※実は、11月祭で開催した長谷敏司『BEATLESS』読書会の更新もまだです。申し訳ありません……5月中にはなんとか……)
posted by KUSFA at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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