扱った作品は青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」(新潮文庫『四十日と四十夜のメルヘン』所収)。折しも読書会前日に発表された第二十五回三島由紀夫賞には氏の近著『私のいない高校』が選ばれました。今後のご活躍を心よりお祈りいたします。
読書会ではまず本作に対して、バラバラにされた記述をパズルのように組み合わせ、全体として整合性のある解釈を生み出せないかという「謎解き」的なアプローチを試みるところから始めました。一般的な小説像とはだいぶ異なった本作の錯綜した記述のあり方について整理するためのものでしたが、議論としては登場人物に論点が集中し、語り手の「わたし」は作中で入れ替わっているのか、男性なのか女性なのか、上井草とは何者なのかといった点が話題に中心になりました。さらには日常(日記)パートとメルヘンパートの間に対応関係を認めれば、本作は一種のメタフィクションとして統一的な解釈が可能だとする意見も参加者の一人によって提示されましたが、これに対してはうまく反応できずに終わりました。読書会担当者として後悔の残るところです。
本作の記述がどれほど錯綜したものであるかということをひと通り確認したところで読書会は本題に入ります。作品のもつ魅力のありかを明らかにするため、後藤明生『挾み撃ち』との比較を試み、さらに補助線として蓮實重彦による『挾み撃ち』論「『挟み撃ち』または模倣の創意──後藤明生論」を参照しました。この論に従えば、『挾み撃ち』の小説としての魅力は「物語を〈模倣〉することでかえって物語を遠ざけながら、語りの〈模倣〉と作中のモチーフとして現れる〈模倣〉との共振関係によって快楽を生み出す」ところにあると言えるでしょう。
「四十日と四十夜のメルヘン」もまた〈散乱〉させられた記述によって解体された物語を、作中に繰り返し現れるチラシの〈散乱〉との共振が支えている小説だと言えます。ふたつの〈散乱〉の共振は、文章の向こうにあって解き明かされるのを待っている「謎」や「仕掛け」ではありません。読む快楽を生み出すメカニズムとして直接読者に作用する、文章そのもののはたらきであって、それは蓮實重彦が『挾み撃ち』の内に指摘している「表層の戯れ」というはたらきに対応すると言っていいかもしれません。
書割のようで向こう側を感じられない世界を、以上のような方法でもってかえって魅力的に描き出しているところに、「四十日と四十夜のメルヘン」の小説としてのおもしろさがあると言えるのではないでしょうか。
当初の予定ではこの後、中原昌也との比較を通じて青木淳悟と後藤明生との間にある差異を明らかにできないかといったことを話す予定でしたが、残念ながら途中で時間切れとなりました。また終了間際には(『挟み撃ち』論において蓮實重彦が前提としていたような)「物語批判」という問題意識は読者にとって必ずしも自明のものではないという立場から批判があがり、それについて議論が盛り上がりました。話し足りないところも多々ありましたが、参加者の積極的な発言に助けられたこともあって、結果としてはそれなりに有意義な読書会になったのではないかと思います。
次の読書会は5月22日(火)、課題作品は円城塔「道化師の蝶」です。教室は4共32となります。ぜひご参加ください。