前回の記事で告知させていただきましたように、去る十月に開催された京都SFフェスティバルの合宿にて、第二回本格ライトノベル大賞選考座談会を行ないました。
その結果、第二回本格ライトノベル大賞受賞作は、新沢克海先生の《マガミ》シリーズに決定いたしました。
京フェスサイトではすでに告知させていただきましたが、この度候補作へのコメントとともに改めてご報告申し上げます。
新沢克海《マガミ》シリーズ
ライトノベルのフィールドでいま最も後進に影響を与えているのは西尾維新であると言い切ってしまって問題ないだろう。初期は上遠野浩平の影響もあるほのめかしの効いた世界観と韜晦を交えた独特の文体とキャラ造形で好評を博したが、近年では〈物語〉シリーズの大ヒットもあり、初期からさらに先鋭化したキャラの掛け合いに定評がある。また、ハーレムラブコメのようなフォーマット化した物語への批評的あるいは皮肉の効いた物語展開も非常に特徴的である。もちろんその前提に、読者に一定のカタルシスを約束する確かな小説技術があることを見落としてはならないだろう。
今回本格ライトノベル大賞を受賞した『コロージョンの夏』も西尾維新の影響下にある青春小説(もちろん西尾維新以来の特殊な人物造形やバトル展開があるのだから、ここは「青春エンタ」と言ったほうがいいかもしれない)なのだが、本作は西尾維新が切り開いた世界を踏襲しつつも、「劣化」や「退行」、あるいは「洗練」という言葉ですますことの出来ないある種の「ずれ」を抱え込んでいる。
「革命家」の息子でありながら日常を愛する主人公は彼の護衛や世界に力を及ぼす二つの勢力の娘二人らから想いを寄せられているが、鈍感な彼は彼女たちのアプローチをのらりくらりとかわし続ける。しかし、日常の背後では、「革命」にまつわるなにか大きな物事が動き出している。
このように非常にラノベ的、初期の西尾維新のような物語は、主人公より年上の青年の登場によって、ライトノベル的世界からずらされていく。革命グループに所属しつつも革命を信じておらず、優しい恋人を持ちながらも満たされない青年の人生を諦めたような態度は、主人公の未来の姿のようであり、二人の、あるいは主人公と青年の恋人の概念を巡る抽象的な会話は、モラトリアムの空気をまとって、気取ってはいるが諦念に満ちている。このようにライトノベルを逸脱するような部分を、少し乱暴に「初期村上春樹的」とまとめてもいいかもしれない。英雄になることを、物語に乗ることを華麗に受け流し、アンニュイな雰囲気の中に揺蕩う。あの文学史上最も有名な「やれやれ」の空間である。実際著者は文体において村上の影響を多大に受けているのだろう。あるいは、主人公、青年、恋人の間で、友情のような好意をもとにして生まれるあいまいな三角関係も村上春樹的と言う(少なくとも鈍感な主人公と好意≒恋心を持つヒロインというラノベ的な関係とは似ているようで似ていない)と、牽強付会だろうか。
典型的なラノベ的キャラクターの掛け合いを楽しむ西尾維新的世界とモラトリアムな空気を楽しむ村上春樹的世界。二つの世界は分離し、ある種のねじれを持ったまま並行していく。しかしそのねじれは邪悪な敵、言葉の通じない圧倒的な暴力によって強引なまでに解放される。今まで積み上げてきた言葉をなぎ倒し身体的なレベルで人間を「革命」していく敵に対して普通の高校生である主人公はなすすべもなく、物語は「不快」なシーンへと転落する。しかし、ホラーのようにじわじわと迫ってくる決定的な瞬間は曖昧なままに終わり、バトルを経てもすっきりした解決には落ち着かない。そこにライトノベルに通常求められるようなカタルシスをともなう終わりはない。主人公は傷を負いながらも結論を得ることなく日常に再度投げ出されることになる。余談だが、後期村上春樹で無視できないテーマの一つが「悪」であり、ここで本作はもう一度村上春樹に漸近していく。
革命に悩まされる主人公は、ついに革命と決別することも、革命家になることもない(少なくとも、一巻では)。一方で愛すべき日常は過去と未来の革命に亡霊のように纏わりつかれ、主人公は現在の中で孤独に懊悩し続けることになる。しかしこの懊悩する主人公に評者は新しいライトノベルの可能性を見た。村上春樹的な感性を持つ少年が圧倒的な暴力を潜り抜けてなお生き抜こうと、なおも他者と関わり続けようとする時、彼は今までのライトノベルの主人公達と違った形で「成長」し、新たな言葉、新たなリアリティーを獲得する。これは受賞を争った候補作であるキャラクター小説の傑作『丘ルトロジック』が異端者による「革命」を高々に歌い上げたのとは対照的で、日常を愛する本作の主人公にはある意味で「決定的な瞬間」も「物語的な終わり」もない。だが、『コロージョンの夏』の主人公の苦悩に満ちたリアリティーは典型的なラノベ的キャラクターへも照り返しさらに相互に光を照らし合うことで、新たなキャラクター小説が創られていくのではないか(実際、二作目においてはそのような傾向が見られる)、そのような意味で本作にライトノベルの「未来」があると評者は考えるのである。
また西尾の初期作のようなほのめかしの過剰な世界観を補強するための仕掛けがなされている点も興味深い。講談社BOXは過去にも『空想東京百景』などの漫画と小説が混在した妙な本があったが、本作では背景となる人物のインタビューや漫画などが幕間に挿入されている。お遊びのように見えて、様々な兆しと思惑が交錯する情報の束からは、主人公の置かれたモラトリアムな世界(しかし、何の「遅延」で、何からの「猶予」が彼に押し付けられるのか)が垣間見える。講談社BOXというフットワークの軽い叢書らしい演出ともいえるだろう。
耳目口司《丘ルトロジック》シリーズ
キャラクター小説にキャラクターが重要な意味を持つのはあまりにも自明だが、その中でも『丘ルトロジック』は、メインキャラクターの多くが、それぞれ方向性は異なるものの一点突破的な強いインパクトを備えている点に特徴がある。
丘ルト研究会、通称「丘研」のメンバーは皆、過剰で病的とすら言える設定を背負っている。彼らの異常性が、何もかも知り尽くし、何もかも知り尽くされた現代における【未だ知られざる存在/オカルト】の探索を通して描かれるとき、キャラクターの中から「世界を【知り/支配し】尽くした人間から、再び世界を取り戻すための闘い」というテーマが自然と立ち上がってくる。彼らはもはや、本物のオカルトよりも【普通ではない/オカルトな】存在だ。何気なく提示される変態的な嗜好はコミカルな親しみを生み、致命的なハンデやトラウマに裏打ちされた奇異で得意な人生観はある種の狂気にも似た憤りを描き出す。コミカルさとシリアスさが同居したキャラクターを完成度の高い描き方で提示し、更にはそこからテーマを自然と立ち上がらせた点に評価が集まり、今回候補作に選定される事になった。
選考会では本作と『コロージョンの夏』の二作が最終的に本格ライトノベル大賞を争ったが、先行者五名による多数決では3対2の僅差で大賞を逃した。
広沢サカキ《アイドライジング!》シリーズ
「ショウほど素敵な商売はない」という言葉がある。見世物として、たとえ笑われ晒されようとも、その身・その芸を以て衆目にアピールする。生き残るために。彼ら彼女ら、芸事に身を捧げたものは、そのような、身を削る生き方を選んできたものたちだ。例えば泥臭いプロレスラーは身を削る生き方の筆頭だし、華々しいアイドルたちも生き残るために必死だ。興行〈ショー〉の場、番組〈ショー〉の場で、彼彼女らは輝く。
全身全霊を掛けてぶつかり合い、闘い、そして輝く。両者の面白さを混ぜこぜにしてひとつにまとめ上げたのが、この『アイドライジング!』だ。作中におけるアイドライジングとは、東京湾埋立地・ニライカナイ島を舞台に、アイドルと呼ばれる少女たちが、科学技術の粋を集めて造られたバトルドレスを纏い、勝利を目指して戦い合う、一大エンターテインメントだ。ヒールとベイビーフェイスのお膳立て、敗者から挑むリベンジマッチ、時に行われるタッグマッチは、中継され配信されることで、ショーとしての完成を見る。
電撃文庫大賞金賞という、業界最大手レーベルにおける評価を既に得ている作品ではあるが、内容は非常にチャレンジングである。強力なライバルに挑むスポ根的、熱血的な展開。舞台外での女の子同士の、百合といってしまって良い交流。いずれも売れないジンクスがついて回る。近未来の都市の設定も、鉄道やごみ処理など、端々にSF的な作者のこだわりが顔をのぞかせる。にもかかわらず、物語としては勝利・友情・努力を軸に、シンデレラストーリーとしての面白く出来上がっているところが本格ライトノベル大賞にノミネートされた所以だ。
1巻の話は、アイザワ・モモがアイドライジングの世界に身を投じ、アイドルとして駆け出すところまで。お金を稼ぐためという安易な理由で始めたアイドル稼業。シンデレラガールがどこまで行けるのか。行く末を見守りたくなる。
神世希《神戯》シリーズ
尖り具合という観点からすれば、今年度のノミネート作の中では間違いなくトップに立つであろう作品。受賞作の『コロージョンの夏』とともに、今年度は講談社BOXから二作品が候補作にノミネートされている。レーベル的な立ち位置としては、ジャンルの中心ではなくボーダー付近に位置していると言える講談社BOXだが、だからこそ、主要レーベルばかり読んでいては出会えないような、斬新かつ痛快なインパクトを与えてくれる作品も多い。
まず嫌でも目につくのは、上下巻で二段組千ページを超えるその分厚さである。だが、「ライト」ノベルという名称を物理的に拒否するような鈍器めいた外観とは裏腹に、肝心の中身の方は、キャラクター的な登場人物や、独特のセンスとネタに満ちた言語表現、異能バトルと学園ミステリを混ぜ合わせた物語など、ライトノベルの紋切り型を徹底的に煮詰めたような内容だ。その作風を一言で形容するなら「過剰」である。過剰な分厚さ、過剰なタイポグラフィ、過剰な厨二バトル描写、過剰な(アンチ)ミステリ的仕掛けなど、作品のいたるところから作者の高笑いが聞こえてくるような、ある種のパロディ臭すら感じさせる悪ふざけめいた書きっぷりを表現するには、カバーの内容紹介にある「ラブレー的哄笑」という言葉がまさしくふさわしい。
とはいえ、特筆すべきは、こうした「過剰さ」を放埒なまでに振り回しながら、千ページ近くに渡って作品をリーダブルに保つ作者の筆力だろう。キャラクター同士の掛け合いを軸に物語を進めていく作者の手つきは非常に手慣れており、威圧的な長さに反して、読み進めるほどに物語のなかにぐいぐいと引き込まれてしまう。ライトノベルを書くにあたっての作者の基本的なスキルは間違いなく高い、というのが会員の一致した見解である。
更伊俊介《犬とハサミは使いよう》シリーズ
昨今のライトノベルにおいて、「キャラクター同士の掛け合い」という要素はますます先鋭化していく傾向にある。こうした流れに火をつけた要因はいくつか考えられるが、その中でも大きいのは、西尾維新《物語》シリーズと、漫画における、空気系あるいは日常系萌え四コマと呼ばれる諸作品の影響だろう。本作『犬とハサミは使いよう』は、独特の個性を備えながらも、とりわけ前者の強い影響を感じさせる作品である。
本作の主な魅力は、本狂いの主人公とハサミという凶器を日常的に振り回すサディスティックなヒロインという、濃密な個性を備えた二人のキャラクターの掛け合いだ。強盗に殺された主人公が犬に生まれ変わるという不条理劇めいた展開から始まり、主人公とヒロインの漫才的やり取りを軸に進む物語は非常に軽快でテンポがよく、近年の同系統の作品の中では出色の出来と言える。さらに、物語の終盤では、主人公を殺した強盗犯の罪を罰を巡るシリアスな展開が顔を覗かせるなど、単なるお気楽なコメディに終始しない多面性、そのうえでコメディとしての物語の本分を逸さないバランス感覚も優れている。
何より、犬である主人公との将来設計を本気で考えるヒロインの姿が胸を打つ。二人の幸せな未来を見届けるためにも是非続いて欲しいシリーズだ。
朝田雅康『二年四組 交換日記 腐ったリンゴはくさらない』
SF、ファンタジー、ラブコメ、ミステリとライトノベルが包含できるジャンルは様々であり、したがって本格ライトノベル大賞のレギュレーション対象に含まれる年間約120本の作品群もそれぞれが毛色を異にして多種多様な色合いを見せる。
本作はその中でも類を見ない意欲的な試みをおこなっている。というのもこの作品、交換日記の体裁を取って問題児クラスの様子を群像劇形式で多面的に描きつつ、その中で『35人の異名と本名の名前当てパズル』を読者に提示してくるのである。「この作品でしかできない事をやってのけた」と否が応にも感じさせるその独自性を損なうことなく、しっかりと物語に落とし込んだその手腕に唸らされた選考委員一同は、真っ先に本作を候補作に選出した。
しかし、そういった観点を評価した結果、「この作風に二度目はあるのか」という疑問はどうあがいても無視できず、結果、残念ながら受賞には至らなかった。しかし、そういったパズル小説的な側面に注目した我々ではあるが、それを抜きにしても、先を読ませようとする力に溢れている本作は純粋に学園ものライトノベルとしても楽しめる。読者への挑戦状を抜きにした本作の続編も是非読んでみたいものである。
最後になってしまったが、本作では登場人物三十五名分のイラストを全て書き分けたイラストレーター、庭氏の腕前にも注目していただきたい。
以上です。今後も本格ライトノベル大賞をよろしくお願いします。
2011年11月14日
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