2011年11月10日

ケロQ『素晴らしき日々〜不連続存在〜』読書会レポ

たまにはみんながあまり触れる機会の少ないメディアを、という事で、今回は担当者(MAKKI)の強い希望から美少女ゲームである『素晴らしき日々〜不連続存在〜』(ケロQ)の読書会を行いました。読書会参加者は担当者合わせて四人(うち一人は未プレイ)と少なめの人数での開催となりましたが、プレイ時間・価格・年齢制限等の敷居の高さを考えるとむしろかなりの会員に触れてもらえたと思います。
(そのときに使用したレジュメもこちらで公開しています。PDFにつき注意→ レジュメ 時系列表
『素晴らしき日々〜不連続存在〜』を読み解く為にはいくつかの予備知識が必要ということで、読書会ではまず最初にケロQの出世作『終ノ空』の説明および『素晴らしき日々』との相違点を確認しました。
本作が『終ノ空』のキャラクターを踏襲している事は公式ホームページ(『終ノ空』のページ(18禁)『素晴らしき日々』のページ(18禁))のキャラ紹介を見れば一目瞭然であり、また実際にストーリーの方も1-3章までのあらすじはほとんど似通っています。
その事を確認した上で、読み解きに重要となるポイントとしてウィトゲンシュタイン、特に彼が『論理哲学論考』を書いた時期(前期)の思想および『論考』の裏にある倫理観・宗教観・世界観を確認。その二作の根底にウィトゲンシュタインの思想が大きく絡んでいる事は企画・原案・メインシナリオ・原画(一部)を担当するすかぢ氏が至る所で明言していますが、作中で特に重要な部分の「人が操る言語(その根幹ある「論理」)、それが作り出す「世界」それ自体は一切の意義や価値を内包しない。そこに意味を与えるのは「わたし」である」「世界とは「わたし」の世界であり、世界の限界はわたしの世界の限界である」といった独我論的世界観、更には「倫理や生に関する問題は世界の外に属しており、論理によっても「わたし」によっても語る事ができない(世界の外にあるそれをウィトゲンシュタインは「神」と呼んだ)」「したがって、「生とは何か」という問題は「幸福に生きよ!」以上の事は語り得ず、生は幸福に生きる事それ自体によってトートロジー的に正当化される」というウィトゲンシュタイン独特の倫理観を確認しました(担当者自身はウィトゲンシュタイン自体は門外漢もいいところなので、この説明は甚だ不十分です。できれば上記のリンク先レジュメあるいは各種解説書をご確認ください)。それだけでも、作中の意味深な言葉の数々が思いの外理路整然と理解できた事は読書会の担当者自身が一番驚いた点でもあります。

そこから本題として論点の確認に移ります。
一つ目は「モチーフの使い方」について。この作品は様々な作品をモチーフとしてたくさん利用しています。たとえば、本作では想像の存在としてのキャラクターが幾人か出現しますが、そこでは空想から架空の恋人を作り出した「空気力学のパイオニア」シラノを描いた『シラノ・ド・ベルジュラック』がそのものずばりのモチーフとして使われます。そこから更に、エミリ・ディキンスンの詩「脳は空より広いか」と相互にモチーフを接続する事で本作の根幹にある認識論を引き出し、また「脳は空より広いか」における「脳は空を易々と吸い取ってしまう」というフレーズを「わたしは世界を満たす」という独我論に関連させ、「言葉と音のちがいほど」のフレーズを本作のキャッチフレーズである「言葉と旋律」に結びつかせ、そこから「言語=世界」に対置する形で「旋律=神」→「神様は旋律なんです」という2章における希実香の印象的な台詞へと繋けるなど、相互補完するモチーフが本作は特に印象的でした。
他にも、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』、「生まれてきた赤ん坊は世界を呪っている」「砂浜の足跡」といった説話、「変わらない風景・ありふれた風景」の象徴としてのニュータウン、夏の大三角/創造・調和・破壊/卓司・由岐・皆守の結びつけ(クザーヌス『学識ある無知』)etc...と、中には表層的なレベルに留まったモチーフの使用もありますが、『素晴らしき日々』は多種多様なモチーフを様々に組み合わせていく点に最も特徴があるということを話し合いました。

二番目は、本作の物語は三つに分ける事ができるという話。一つは『終ノ空』から踏襲された物語、二つ目は『素晴らしき日々』で追加された皆守周辺の物語、そして三つ目が同様に本作で追加された希実香周辺の物語。一度完成した『終ノ空』という作品をわざわざもう一度なぞるだけでは作品を作る意味に乏しいと思われますし、したがって新たに追加された二番、三番の部分に注目せざるをえません。特に三番目、希実香周辺の物語はあくまで本筋である皆守の話から外れたハッピーエンドを導く点で希実香という存在の意味やその重要性を改めて再認識しました。

次に、皆守にとって由岐・卓司はどういう存在なのかという問題。
一つの体に三つの魂が入り混んだと考えれば1章の"Down the Rabbit-HoleT"とうまく整合性を取る事ができます。つまり、6章で死の間際に卓司、由岐が皆守の体に入り混んだ事と同様にざくろもまた死の間際に近くにいた皆守の体に入り混んだのであり、その中で見た夢の世界が1章Tであるとする説明が可能です。一方で、人格障害の説をとる場合、最後には本来の多重人格障害の帰結として訪れるような「一つの人格に統合される」という描き方はされない事、また過去の由岐・卓司と現在の皆守の中にある由岐・卓司との連続性が途切れる事の収まりの悪さなど、こちらは疑問が多く残るところです。
しかし、人格の同一性が途切れる(まさに「不連続存在」!)事や、想像の存在である事、それら自体は否定されるものではない事は作中(終ノ空Uエンド)で示されている事ですし、また読者からすると色々と考える際におもしろいのは多重人格説の方だという意見もあり、答えが出ない事ながらも参加者はここでの話し合いで一番議論が盛り上がっていたように感じました。

その後、作中で説明がつかない部分の議論を行いました。しかしながら、1章Tと「終ノ空U」エンドの部分は色々と考える事ができるものの、結局のところ答えはない/どの答えも許容できるような作りになっているので「わからないねー」「ねー」と言い合うだけのまったりした時間になりました。
次第に話は「どのヒロインが可愛かったか」、「希実香ちゃんと死にたい」、「皆守の女装シーンに絵がないのはバグだ」、「由岐姉に「なんだよぉ〜」って言われたい」、等々脱線が転じて本音暴露大会めいてきたところでまとめに入ります。

担当者のまとめとしてはポイントが二つ。
終ノ空Uエンドは、「すべての魂は……たった一つの世界を見る事が出来るのか?」という1章冒頭の問い、独我論を突破する為の試みとして提示されたものではないか(偏在転生という概念など)。だから様々な由岐が同列の存在として扱われているし、その上でこれまで暗に提示されていた「終ノ空」と「素晴らしき日々」という二項対立を最終的にぶち壊すという事を行ってその論理を全体に適用する事ができるというのも発想としては面白いという事は強く感じました。
また、『終ノ空』から『素晴らしき日々』への発展として、「ありふれた風景」に着地しその重要性を改めて描ききったのがこの作品最大の重要な点ではないかと担当者は強く思いました。ついでに言うと、世界の限界の果ての先、世界の外に飛び出す為に終ノ空に至ろうとする試み(空に還る)は「魂の輪廻」に囚われ、ありふれた風景に着地する選択である「素晴らしき日々」の生き方はそこから抜け出して先に進むという逆転の構造になっている事はまた巧みな構成になっているとも感じます。

ただし、以上のような事を踏まえた上でなお気になる点はあるかと考えた時に、会員からいくつかの指摘が。
一つ目に、曰く「本筋の三つのエンディングやハッピーエンドを見た時に、そのどれもが近親相姦・死・幽霊・百合といった、どこか『問題のある』結末になっている」という事。このことは実はかなり重要なポイントだと思いました。最終的に結びつく関係性が真っ当でストレートな愛の形とはいささか異なるところに落ち着くという事からは、非常に感動的なエンディングに収めた事が評価できる反面、一歩引いて見たときにはエンディング後の「その先」に対する不安を抱かせるのはたしかです。また、ある種の社会的タブーを描く過程が作中ではあっさりと流されてしまうのはたしかで、そういった描き方をする事の倫理的問題はないのか、という部分などの疑問は残ります。
勿論、「倫理」という話を持ち出すとそれは「世界の外」の問題だとなりますし、それらの疑問に対する答えが「幸福に生きよ!」であるとしたらそれはちゃんと筋道の通った回答になっているでしょう。
実際、『素晴らしき日々』は様々な事件や苦難を乗り越えた先に辿り着くありふれた風景、「幸福に生きよ!」という言葉に結論が集約するのは疑いがありません。しかし、社会的タブーや倫理的問題に対してただ簡潔に「幸福に生きよ!」と叫ぶときの、その言葉はある種の乱暴さ・暴力性を孕んでしまうという指摘はまた無視してはならないと感じました。

また、他には、最終的に行き着くエンディングでは何人かのキャラクターは意図的に目を背けられているという点にも注目が集まりました。
卓司が6章ではもはや省みられない事。あるいは実際に卓司の指示に従って空に還った人たちもしかりです。そういったキャラクターへのエクスキューズとしてハッピーエンドが存在している事もありますが、必ずしもそうではありません。「向日葵の坂道」エンドのようなご都合主義的エンド(というのはすかぢ氏の言ですが)を作るのなら、どうせなら全てを掬い上げるようなエンディングはあってもよかったのではないか(たとえば卓司もまた由岐と同じ様に残るような……もっとも、こういった「たられば」話はどこまでもできる事ではあるのですが)……担当者としてはたしかにその通りだと思わせられました。
また、本作最大のイメージキャラクターである鏡と司の存在もしかりです。「実はないだけ雄弁」な存在として一人称視点で物語が語られる由岐や卓司と違い、彼女たちの描かれ方が物足りないと思わされたのもたしかです。しかも、この二人はホームページでもパッケージイラストでも一番良い位置を占めているという事を鑑みると、作品の象徴的なキャラクターとして位置づけられているという事は想像がつきます。そうしたときに、今回の読書会では鏡・司についてはいささか話したりない事が残ってしまったという反省点は残りました。

以上のような事を話し合った上で、読書会は予定を30分ほどオーバーして終了。自己満足ながら、なかなか充実した読書会になったのではないかと自画自賛しております。

最後に、今回の読書会の感想と担当者の『素晴らしき日々〜不連続存在〜』の感想をば。
今回の読書会では、作品の作りやモチーフあるいは謎といった物語の側面は担当者が自分で勝手に満足できる程度にはある程度語る事ができたと思います。しかしながら、一方でキャラクターの話があまりできなかったのが少し片手オチかなとも感じました。どこか別の場所で由岐姉の魅力を滔々と語る場が開ければいいなとかなんとか。
他に読書会では話さなかった事として、本作はグラフィックの豊富さ(何人もの魅力的なキャラクターを描く原画家、あるいは重要なモチーフである「空」の背景が二十種類以上も用意されている事)や、あるいは音楽の使い方が非常に巧みな事も魅力です。オープニング曲「空気力学少女と少年の詩」や、「夜の向日葵」「小さな旋律」「人よ、幸福に!」といった重要なシーンを彩る魅力的なBGM。また、かわしまりのさんや北都南さん、西田こむぎさんといった声優陣の演技も非常に映えています。
今回は読書会の参加者が少なく悲しかったのもたしかですが、ビジュアルノベルの良さが詰まったような作品ですので、これを見てる人、なによりまだプレイしていない会員にもぜひプレイしていただきたいな、と宣伝をして読書会レポの締めとさせて頂きます。
posted by KUSFA at 02:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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